「すべてが愛」という概念の多重視点

私たちの見ているこの世界は、「すべてが愛である」と表現する人がいます。

もし、本当に「すべてが愛である」という前提を持っているなら、「怒り」の感情も「愛」であるということになります。

それが愛であるという前提を持った上で、その感情のままに「怒り」を表現する人もいるでしょう。

それもひとつの解釈であり、私たちの選べる自由な表現方法の一部です。

ただ、私は「すべてが愛である」ということを、これとは少し違う解釈で捉えています。

「怒り」はなんのために表現されるのか?

私たちは、「怒り」という感情が湧いた時、本当はその奥に「私をわかってほしい!」という思いを持っていたりします。

仮に、「怒り」を感じたとしたら、その感情を客観的に見つけて、その奥にある自分の本当の思いを見つけにいくこともできます。

見つけ方はいろいろありますが、例えば、「この怒りの奥に自分のどんなルールが存在していたのだろう」「この怒りは、自分のどんな一面を認めたくないことから発生しているのだろう」「この怒りの奥には私のどんな思いがあるのだろう」などの質問することでも見つけることもできます。

そして、もしそれが「わかってほしい」という思いなら、それを迷わず素直に表現する選択をすることもできるでしょう。

「怒りさえも、愛である」という前提であっても、怒りという反応を起こした自分の心に何かの葛藤(わかってもらえないけどわかってほしい、それをしたいのに、できていない自分を見たくないなど)があったから感じている感情かもしれません。

だとしたら、自分の心の中からその葛藤がなくなったとしたら、その「怒り」を感じた出来事に出会った時、自分はどのように反応することになるのでしょうか?

カウンセリングの場で出してもらう表現としての「怒り」

私はこれまで、「怒り」という感情を出し切った後、身体状況を劇的に改善させた方など目の前で見てきました。

しかし、それは怒りの先に違う感情がある世界を私も一緒に設定したからだと思います。「怒り」の解釈は、個人個人で違いますが、私のカウンセリングでは、「怒り」は本当の思いの代替表現にすぎないという世界でその場を設定しています。

そういう意味ではカウンセリングの場面では、たくさん「怒り」「妬み」「悲しみ」など、どんな感情も抑圧せずに、表出してくれることは、可能性がより拓けるという意味でも私も大切にしています。

日常で自分の思いを素直に表現することを選択する

ただ、私たちの心の葛藤という雲で覆い隠された「怒り」という感情や「怒り」を背景に持った綺麗とは言えない言葉を、日常の場面で表出することは、自分の本当の思いなのでしょうか?

それが本当に”ありのままの自分”なのでしょうか?

本当のありのままとは、もっと奥にあるように思います。

もし、「怒り」というその感情に気づいたら、自分の心と向き合い(自分でもプロでもOK)、その「怒り」の発生原因となる思い込みやルールを見つけ、手放していき、本当の思いを素直に表現することが日常的には大切なのかもしれません。

私たちが明日この世界から卒業するということが決まっている時、「怒り」という感情に本当に支配されたままでしょうか?

本当にその場面で、「怒り」を表現するでしょうか?

もしかしたら、その状況では、「怒り」の奥にある自分の思いに自分で気づき、その本当の想いを素直に表現することを選ぶ人が何倍にも増えるかもしれません。

だとしたら、「明日この世界が終わる」という条件をつけなくても、今この瞬間から素直な思いに気づき、それを表現し続けることを選ぶこともできます。

あなたのその感情には、あなたの中のどんな本当の思いがあるでしょうか?
そして、それをどう表現していきたいのでしょうか?

すべての選択はあなたが決めることができ、その選択があなたの未来を創っていくのかもしれません。