流行ってなんだろう?!
お店で洋服を見ている時、ショップの店員さんに「今年の流行はこういうのですよー!」と声をかけられたことのある方は多いと思います。
その時に、「流行ならこれにしようかなぁ・・」と考える方もいれば、「流行になんか流されるか!」と考える方もいるでしょう。
私と同じ世代なら、ガングロやルーズソックスが流行した頃を思い出してみてください。
もっと若い人なら、たまごっちとか・・違うか(笑)
その時代には、ガングロやルーズソックスが「かわいい」と思っている高校生たちがとても多くいたように見えました。
しかし、今、「ガングロやルーズソックスって最高だよねー!」といったら「まじか?」ってなりますよね?
それは、一体何なのでしょうか?
自分の感覚よりも優先していることはありませんか?
もしかしたら、カングロやルーズソックスについて、本当は当時から、『????』だった人も多かったのかもしれません。
私たち(特に日本人は)には、「みんなが”良し”と思うことに合わせないといけない」という風潮があったりします。
その風潮は、それぞれの無意識の中にありますが、その裏には、一体何が存在するのでしょうか?
もしかしたら、「自分が多数意見に属していないと危険」とか、「同じ意見を持っている人たちに囲まれていないと不利」などの前提を知らないうちに持ってしまっているかもしれません。
だからこそ、「常識の中にいよう」とか、「大きな組織に所属していよう」とか、「多数派にいよう」とかは、「そうしないと一人になってしまう」などの”欠乏感”が自分の心の奥にないかどうかを丁寧に確認したほうがいいのかもしれません。
ここで、「多数派がよくない」とか、「大きな組織にいることがよくない」と言いたいわけではありません。
ただ、「どんな前提でそこにいるのか」に気づくことができれば、自分の本当に心地よい位置で、自分の意志を持って、その世界にいることができます。(それが自分を大切にしていることにもなる)
判断基準は、みんなが良いと言っているものなのか自分の直感なのか?!
私たちには、Aというものを見て、「それは変!」と直感的に判断できる能力が本来は備わっています。
しかし、その方が無意識の中で、多数派に流されるという意識の中(集合意識の中)にいると、Aそのものが「変」という判断ではなく、多数派から外れているから「変」というように、判断基準が外部になってしまい、自分の本来の直感力を発揮できない状況になっていきます。
今、私たちが見ている「変」と思っているもの、それが本当に「変」なのかはもう一度丁寧に振り返ってみてもいいのかもしれません。
「みんながそういうからそうでしょ?」、「テレビでもいってたから・・」、「有名な先生がいっていたから・・」などは、本当に事実なのでしょうか。
そのみんなが思っている基準らしきものが、一体どこから発生しているのでしょうか?
「マスコミ?親?先生?それとも、過去の歴史?」
自分を大切にすることは、自分の選択の材料に気づくこと
「マスコミ?親?先生?それとも、過去の歴史?」などから学ぶことは、ある面では、とても大切なことかもしれませんが、本当の自分を知るためには、知らないうちに思い込んでいた常識やそれに流されていた自分に客観的に気づいていくことも大切です。
知らないうちに信じ込んでいたものに気づいていれば、主体的に自分でそれを選べます。しかし、そのことに気づいていないと、なぜだから満たされない感覚が自分の中で続いていたりします。
そして、その見えないルールに流されていた自分に気づかないまま、「集団の決まりを守らないと身を守れない」という漠然とした不安があったとしたら、どんなことが起きてしまうのでしょうか?
例えば、「LINEのグループで仲間外れにされて自殺する」などの事件もその一部なのかもしれません。
常識という世界もあれば、その常識とは別の世界もあるということを、ひとりひとりが気づくとまた違った視点で物事を見ることができ、様々な可能性が広がっていくでしょう。
繰り返しますが、「多数派や常識自体が良くない!」と言いたいわけではありません。
ただ欠乏感をベースに他人にあわせている世界で、本当に自分を大切にできているのかをひとりひとりが考えてもいい時代になってきているのではないでしょうか?