私たちは、自分で自分をわかっているのだろうか?
「自分を知る」ことの重要性は、あらゆる偉人の名言や多くの宗教・哲学などから理解している人もいるかもしれない。
私も”人生で最も落ち込む出来事”が起きた時、自分で自分がわからなくなり、感情(怒り・不安・恐怖)が爆発的に湧き起こり、心が大きく揺れる体験をした。
現在の私の解釈では、その落ち込む出来事が起きたことで自分がわからなくなったのではなく、その出来事が起こる時点ですでに自分のことをわかっていなかった(本質的な自分を完全に見失っていた)ことに気づくために、自分でその出来事を発生させたのだろう。
ほとんどの人は、少なからず絶望的な体験をしているが、その体験が起きただけでは、「私は不幸だ」「世の中は思い通りにならない」「やっぱり自分なんて・・」という思考が発生し、良い循環が生まれるとは限らない。
しかし、そもそも人間には、絶望の中から光を見いだせる能力が備わっていると私は考えている。
絶望からどうやって光を見い出すのか?
私は過去のどん底体験の時、思考の中に自然に発生した「俺は何のために生まれてきたのか?」という人生における根源的とも言える”問い”を数ヶ月間、自分に問い続けた。
問い続けている過程も自分の中ではとても苦しく、様々な感情や心の葛藤が噴出し、仕事をしながら、なぜだか涙が溢れてくることもあった。
しかし、それを乗り越え、今の自分から、再びあの体験を眺めた時、人生最高のギフトだったと心から思えている。
あの体験を心の底から最高なギフトだったと考えられるようになったのも、「自分は何者なのか?」というシンプルな問いを続けたからなのかもしれない。
そして、問いを続ける中で「やっぱりこの人に会いたい」「あの人のセッションを受けてみたい」「この本読んでみたい」と自分の心から湧き起こることに素直に生きてみた。
すると、今まで出会ったこともなかった方々と出会う流れに勝手になったり、体験したこともなかった世界に触れる機会が多くなった。
そして、自然に全ての出来事から自分をさらに深く知ることを繰り返していくうちに、自分の大切にしている信念、本当の自分の価値、生きている意味などを見い出しはじめた。
そして、そこから加速的に出会いやチャンスや可能性が拡がりを見せるようになり、この世界を進んでいいんだと”見えない何か”から応援されているような感覚もあった。
そして、そこで気づいたのは、自分で自分がわからなくなった時、必要な問いを投げかけ、新しいパターンで行動してみればいいということであった。
その行動に意味があるのではなく、その行動から感じる自分の思考に可能性を拡大させる大切なヒントがある。
だからこそ、自分を知ってから行動するのではなく、行動をしながら自分を知っていけばいいのかもしれない。
行動をしてやっぱり心地よくないと感じることもあるだろう。
行動をしてやっぱりそれが心地よかったと感じることもあるだろう。
そう考えると行動の先にある自分自身が自分に大切なことを教えてくれるのだろう。
私は今も、道半ばですが、自分の大切にしている信念や核となる自分の価値などに真摯に今後も自分を信頼して生きていこうと思う。