私たちは、自分の目の前に起きた出来事を”正しいか”、”正しくないか”で判断することがある。
 

 

その正しさは、自分だけの色眼鏡で捉えている現実であるにも関わらず、多くの方が自分の正しさをぶつけあい、わからないものを見下したり、時には争いにまで発展させていく。

 

些細なことでも主張を止めずに相手を尊重すらしなければ、それはどんどん衝突し、時には手のつけられない状況になっていく。

 

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恋人同士の喧嘩なんて本当にそういう要素も強い。

ついこの前まで好きだったのに、些細なことでわかりあえないと思いを膨らませていき、しまいには別れにまで至ることもある。

この些細な正しさの主張の争いの規模が、宗教や国に拡大した結果が戦争として表現されている。 

しかし、その「戦争」についてさえも、誰かが自分だけの正しさという色眼鏡でまた主張し合う(ぶつかりあう)。
 
この繰り返しだ。
 
それぞれの中にしかない自分にある正しさ(真実)をぶつけあって、一体何が生まれるのだろうか?
 
そして、なぜ自分の正しさを相手に押し付ける必要があるのだろうか?
 

 

あなたが感じたままを周囲の方と共有する世界と、あなたの考え方をこれが正しいと押し付けたり、言い争ったりする世界では全く違った世界を生きている。

世界の中に自分や他人がいるように感じていても、その世界の認識が全く違う。

 

その違った世界を本当にあなたはぶつけたいのだろうか?

 

そして、もう一度問いかけてみる。
あなたは「お互いを尊重しながら共有する世界」「お互いに分かり合えずに争いを続ける世界」はどちらがいいか?

こう問われると

多くの方が「お互いを尊重しながら共有する世界」と答える。

 

にも関わらず、どうして私たち人間はこんなにも争いを繰り返しているのだろうか。

 

 

そして、仮に私たちが五感で感じた情報だけを純粋に伝えあうことができたら、多くの方が「そうだよね!」と共感、共有するだろう。

それは、木の葉を見て、多くの方が「緑に見える!」というように人間の備わっている五感の共通性が高いからだ。(緑という言葉さえ概念が後からくっついたものだが・・笑)

しかし、私たち人間はそんな単純なことを共有しようとしない。

その単なる五感情報ではなく、その五感情報についた解釈や意味について「私はこう思う」と主張する(わかりあおうとする)。

 

そこではじめて「私はそうは思えない」という意見が増えてくる。

なぜなら、それが解釈や意味はそれぞれ人間によって違うから。

 

つまり、私たちはそもそも共有が難しい解釈や意味について共有したくなり、主張して、わかってもらおうとしているのである。

だから、意見がぶつかりあい、共有できない現実が生まれ、争いにまで発展していくことになったりする。

繰り返すが、私たちの語っている物事はすべて自分の正しさという解釈を分かりあおうとしている

 

それが争いにつながるリスクがあるからやめたほうがいいのではない。

なぜ、私たち人間がその共有しにくいそれぞれの色眼鏡を通した解釈をわざわざ主張しようとしているのか?

この問いに、世界を楽しむ重要な鍵が眠っている。

 

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その鍵が見えた時、何かの光が見えてくる。

新たな問いからしか、新たな可能性は生まれない。
新たな問いからしか、新たな結果は生まれない。

本当に世界は、面白い。

続きはWEBで!

うそ。

また気が向いた時、続き書きまーす。