現在、様々な情報があらゆる媒体を通じて、自由に表現できるようになってきています。
その情報に意識を向けていると、本当に信じられないようなスピードで情報の質が進化しているようにも感じています。
本当に少し行動すれば、自分の人生を変えるほどの重要な情報に触れる機会やチャンスに溢れています。
その情報の中で、「自分の意識が世界を創り出している」「全ては自分で創り出している」という表現を目にする人も増えてきているのではないでしょうか?
「そんな言葉は聞いたこともない」という人もいれば、
「聞いたことがあるけど全く信じてない」という人もいれば、
「言葉ではわかっているけど実感がない」という人もいれば、
「当たり前のようにそう思っている」という人もいると思います。
私たちは、ある情報に触れた時、価値観・信念・前提によって、そこから受け取れる量や質がそれぞれ違います。
ここでは、この「全ては自分が創り出している」という情報が正しいのかどうかについて、話したいわけではありません。
ただ、「この情報(言葉)を自分を責めるために使っていませんか?」という問いを投げかけさせてください。
仮に、
大切な人がなくなった時、
「私がこれをしなかったから大切な人が亡くなったんだ」
「私のせいであの人は亡くなったんだ」
「私が悪かったんだ」
と解釈してしまう人もいます。
もし、そう思ってしまっていたとしたら、
「その証拠は?」
と確認してみてもいいかもしれません。
「何かをしなかったから亡くなったという証拠はどこにあるのですか?」
「あなたのせいで亡くなったという証拠はどこにあるのですか?」
「あなたが悪いという証拠はどこにあるのですか?」
もし、自分を責めていて苦しい人がいるなら、自分でもそのように問いかけてみてもいいかもしれません。
私たちは、自分や誰かが悪いと決めつけている時、そこに何かのルールが存在しています。
大切な人が亡くなったという事実と、その体験から感じる解釈はわけて考えてもいいのかもしれません。
過去に起きた出来事は変えられないかもしれませんが、過去に起きた出来事に対する解釈は、自分次第でどうにででも自由に受け取ることができます。
もし、何かの体験が起きた時に、自分で自分を責めていることに気づいたら、自分で自分を責めたい何かがあるだけなのかもしれません。
その責めたい何かとは、もともと自分の価値を低く見ていたり、罪悪感を持っていたりしているだけだったりします。
そして、その自己価値を低く見ている理由、罪悪感を持つことになった記憶や体験を丁寧に読み解いていくと、そこにはただの思い込みが存在していたということに気づいていきます。
誰か(有名人、著者、偉人、尊敬する人、成功者)が表現している情報は、あなたにとって本当に正しい情報なのかはわかりません。
もし、その情報があなたにとって、自分を責めてしまうような内容だとしたら、そんな情報はあなたには本当は必要ないのかもしれません。
その誰かが表現している内容は、その表現している本人にとっては正しい内容だったのかもしれません。しかし、それがあなたにとって正しい情報であるという証拠はどこにもないのかもしれません。
自分を責めることによって、どん底から何かを見出し、生き方を変えていかれる人もいますし、ここでは、「責めることが悪い」と言いたいわけではありません。
ただ、客観的に出来事や物事を見た時に、自分はその情報をどのような位置で受け取ったのかを観察してみることは誰でも今すぐはじめられます。
どのような体験や情報も、自分を責めるために起きているわけではありません。
それなのに、もし、ある情報によって自分を責めたい自分(不安になる自分)がいたということに気づいたら、
そこにどのようなルールが存在していたのか?と発見し、その先にある本質的な望みを見出すチャンスになるということも全ての体験に存在していることに気づいてもいいのかもしれません。
ある体験に固定的な意味(例えばネガティブで心地よくない意味)をつけたり、「こんなことは起きるべきではない」と反発せずに、ただ客観的に見つめ、丁寧に読み解いていくと、「人生で何を体験しかかったのか」「自分が本当に何を求めていたのか」という自分にとってかけがえのないことに気づいていきます。
そのような気づきを重ねるたびに、もしかして本当に全ての体験は自分にとって必要なのことしか起きていないのかもしれないと思うようになっていきます。
全ての体験から、自分の在り方・生き方を見出せる位置にいながら、その流れの中にいる時、私たちは自分でも想像もできないような力を発揮していくのかもしれません。
自分の目の前に来た体験や情報は、自分にとってどんな使い方にするのかは、本当は自分で自由に選べるのかもしれません。